構造デザイン講義

構造デザイン講義

構造デザイン講義

東京大学で行われた「構造デザイン」の授業三年間分をまとめた内容である。本来お互いに全くの別物として捉えられている、構造とデザイン。構造は物理的な仕組みであり、デザインは心理的なものであり各々は自律した概念である。その矛盾した二項を結び付けようとするのがこの講義の位置づけとなっている。しかし内藤自身が言うように、この講義の真の目的は判断する力を身につけて欲しいという、エンジニアにとって現在見失われつつある豊かな思考力を持つ事の重要さを理解することにある。デザインが苦手な人で数学のできる人が構造設計に進むというのは間違いで、イメージの豊かな人ほど構造系に進むべきだと述べているが、これと同じ過ちを犯している建築学科も多いだろうと感じる。何故か意匠設計のできる人が優秀だと捉えられ、注目されるのである。これはカリキュラムの問題なのだろうか、早急に解決すべき事柄であるとも感じる。
内藤はデザインの定義は「翻訳すること」だと述べ、「技術の翻訳」、「場所の翻訳」、「時間の翻訳」の三種の翻訳について表している。この「技術」「時間」「場所」の三つを意識し、それらを誰にでも分かりやすい形に翻訳することがデザインの意義であり、そうしたデザイン能力を身につけるために感性を養う必要性があるということを示している。そしてそのヒントは日常生活に転がっていると・・・・。
講義は「組石造」「スティール」「コンクリート」「プレキャストコンクリート」「木造」と各構造の特徴と留意点、具体例を挙げながら展開していく。共通して言えることは、エンジニアリングの知識、豊かな感性を無くして新しい発展は望めないということであろうか。「スティール」の回で紹介された近代建築の先駆けとされる水晶宮の設計者、ジョセフ・パクストンが造園家であったことを見てもわかるように。そして今でも目新しい建築は構造エンジニアによって支えられている。また各項目において経済性、合理性だけでなくその「リダンダンシー(冗長性)」を含んだ設計をしなければならないことを指摘している。
最終章の「構造の最前線」ではコンピュータの発展によっても手に入れることのできない「経験知」「体験知」「感覚」を養うことの重要性に触れ、最新のプロジェクトについての優劣をはっきりと述べている。私は何かデコン的な、常軌を逸したような建築に対して疑問の念を抱いていた。しかし内藤の「新しい構造、それは建築的な価値とは無関係なのです。本当の意味での建築的価値とは、技術と芸術結び合ったその時代の精神の現れなのです」という言葉によって少し晴れた気がした。あまりにも身体的空間から離れ、超越的であり、それに不安感を抱いている人は私だけではないだろう。そしてまた引用になるが新しい表現を思考する時の注意点は「新しければ新しいほど、それを人間に結びつける深い思考と強靭な精神が必要」という言葉に帰結される。誰のために、何のためにを欠いた建築は認められるべきではなく、私自身、現在求められている建築とはもっと現実世界に近いものであると感じている。
そして最後に空気環境の設計の先駆性に触れ、分業化されている建築界をつなぐものとして空気というディメンションが重要であると予想している。トータルに思考し、すべてが水平線上につながった時に本来の、完成されたアーキテクチュアが構築されることを望む。