新・都市論TOKYO

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

Out Line
建築家隈研吾の解説を挟みながら、清野由美との東京各場所で行われた5回の対談などが記載されている。汐留・丸の内・六本木・代官山・町田を巡りながら東京の未来について語る。そして最後に北京という都市のダイナミズムの象徴に触れている。

Content
隈研吾が都市計画の手法として挙げているのが

  • オーバーオール型:大きくて派手。野原の上にゼロから計画するもの。ブラジリアなど。
  • 再開発型:別名「六本木ヒルズ型」既存の都市をごっそり建て直す。
  • 規制型:地味な計画。特定の地区にあるルールを定め統一した都市景観をつくる。長期。
  • テーマパーク型:ゲートの中のフェイクタウン。ディズニーランド。現実の都市のコピーとして作られたテーマパークが、今は現実の都市が逆にコピーしているという皮肉な状況に陥っている。

の4つでありそれに代わるものとして、トップダウンではなくボトムアップの都市計画の可能性を示唆している。それはハリウッド映画に対して小津安二郎といったような「草の根のスローな都市計画」であると述べている。すなわち住民の意識改革、住民が都市に対してどの程度問題意識を持ち、長い都市計画に付き合っていけるかが問われている。

以下取り上げられている各都市のまとめ

汐留
国鉄の貨物駅跡地であり、第二次産業から第三次産業の転換に伴って出現した巨大な空地があった。31ヘクタールという広大な土地でありながら一手にリスクを負えるディベロッパーはなく11街区に分割され、分譲されて現在のような統一とは程遠い高層ビルの風景が広がっている。リスクを避け重層化される建設体制によって羊羹のようなビルが林立してしまう現状であるが一つ一つのビルの質は良いと隈研吾は前向きな評価をする。要するに並べ方が酷く都市計画の不在が浮き彫りとなっているのである。

丸の内

丸の内といえば三菱グループ。単一の企業による達成といってもいい丸の内は東京において稀有な存在である。「特例容積率適用区域制度」「特定街区制度」などによる容積率緩和措置によって歴史的建造物の保存が可能となっている。(明治生命館日本工業倶楽部など)最近ではジョサイア・コンドルの設計である三菱一号館が復元された。古いビルを壊してさらに古いビルを復元するという矛盾。歴史的な建物を担保にして超高層が造られる行為は三菱という文化を自己否定することになるのかもしれない。

六本木

小さな土地をもった400人の地主たちを一人ずつ説得して買収され建造された六本木ヒルズ。「アーバン・ニューディール政策」という居住高層化の概念を掲げている森稔の発想によって出来上がっていった。一本の太い超高層を建て容積率を集約させ周辺部は低層に抑え緑地や公園とした。現在の状況下においてこの都市開発のソリューションに隈研吾は高得点を付けてもいいという。

代官山

地主の朝倉家が広範囲に点々と土地を所有するという好条件に恵まれ、30年もの長い歳月をかけて、しかも建築家の槙文彦迎えて開発ができたというこの上ない場所である(ヒルサイドテラス 上画像)。六本木ヒルズとは逆の、経済的には閉じて、空間的に開く形式は「朝倉家×槙文彦」という「余裕」から生み出された。しかし一方で代官山アドレスという”反ヒルサイドテラス”的因子によって性格が変わりつつある。

町田
「リアル」なJRと「バーチャル」な私鉄との二重性によって構築された代表的な「郊外」の街。住宅街、歓楽街、電気街、書店街、商店街という様々な用途が混在している。この混在性は逆説的に「郊外」ではなく「都市」であることを示している。

北京
地価の高い東京ではリスクの分散が求められ建築家もその創造性を発揮することができないが、ここ北京では都心部の再開発のマスターアーキテクトを任せられる。建築家の夢が目の前で繰り広げられている現実がある。隈研吾が指摘するように東京やニューヨークを抜く勢いで世界の首都に名乗りをあげている。

Review
混沌というイメージしか持てない東京もこのように場所ごとに見ていくと性格が見えてくる。だとすれば各場所での何らかのポテンシャルを見出していくことは可能ではないだろうか。しかしそれは持続的で長いスパンをもってして考えることのできる都市計画だろうし、アメリカ型グローバリズム、資本主義社会である日本にとってどんなに困難なことかはこの本を読まずとも想像できてしまう。
大学に入って間もなく私はヒルサイドテラスの存在を知って訪れた。槙文彦の設計は当然のことながら、一体的に開発され統一感のあるその街並みに魅了された。「何でこんな風に東京を開発していかないのだろう?」その理由はこの本の中にも書いてある通り朝倉家の「余裕」と槙文彦の「余裕」とが合わさった稀有な例だからである。隈研吾の指摘する通り学生の課題で都市計画とするときにヒルサイドテラスを参考事例として取り上げる人は多いと思う。そしてそれは現実には無理なのだ。
日本の成熟社会の中で建築家のできることの範囲は狭くなり、一体として大きな面積を開発できるのは地方の市町村などに限られてきている。リスクを負える強大な資本力があっての都市計画とは、都市計画の本質とは別次元であるべき話に感じる。
この矛盾を孕んだままの東京という都市に未来はあるのだろうか。