20年以上生きてきたから、普段食べるような食べ物の味は食べる前から大まかにトレースできる。市販されている飲み物に至っては、きっと食べ物より味が分かるし、自分の好きな味を自然と選んで飲んでいる。

初めて訪れる建築に対して抱く感情は、二回目ではどうなるだろうか。

建築において何回も訪れるものとそうでないプログラムがある。(あくまで個人レベルで、そこで働く人は除いて)

自宅なんていうものはもう毎日のようにその空間を体験している。つまり住まうということは、その場所を何度も体験することである。そして建築を造る側の立場からもそう設計されている。私は模様替えなんてするたちではないから、自宅においては何度も同じ空間を噛み締めているのだろう。古くなると味が出るなんていうのはよく言ったものだ。もっと違う味がほしい。噛めば噛むほど味が出るものなんて中々ない。ガムだって噛んでいたら味はなくなる。

住んでいると出てくる「愛着」や「安心」と呼ばれるノスタルジックな味はさておいて、きっと理想の味(空間)をいつだって求めている。

美術館に住んだとしたら何がどう変わるのか知りたいと単純に思った。普段は「鑑賞する」という行為しかしない美術館に、住んでみる。
自宅を図書館みたく本で埋める人は居るけれど、図書館に住むとはまた違った感覚ではないだろうか。

「住む」というプログラムではない場所に住まう。
日常とは違う空間が日常化していく過程にどんな感情の変化があるのだろうか。