原っぱと遊園地

『まず人びとが動き回れるように道があった。
そして、その動きをより活性化するために、あるいはその動きを一時的なものでなく定常的なものとして構造化するために、
道の一部がある特定の性格を帯び始めた。それが建築ではないか。』
原っぱと遊園地 青木 淳 P59より


何をするのかが分かる、行動の規定されている「遊園地」としての構造を持つ建築から、
はじめは無目的でも、そこで行われることによって場所としての性格が形作られていく「原っぱ」としての建築へ。
建築とは本来、そのくらい自然に近い形で存在すべきではなかったのか。
目的を持つ事の不自由さから、そして実用主義的に決められていく建築の窮屈さから解き放つようにこの言葉は投げ掛けられる。
青木氏の「動線体」の概念は「つなげられるもの」より「つないでいるもの」に価値を見出す。
劇場があって、神社があってつなげられるのではなく、つないでいるそのものに建築を還元する。
そして人が動く時にだけ建築が現れるのだろう。

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か