Webと建築そしてプロセス〜ARCHITECT/TOKYO/2009〜

TOMIO KOYAMA GALLREYで行われている『建築以前、建築以後』とhiromiyoshiiの『生成の世代〜generation of generativity〜』、そしてTaka Ishii Galleryの『平田晃久Akihisa Hirata"Flame flame"』へ訪れた。この三つの展示は同じ建物内で行われ、互いに独立した展示内容になっているものの、『ARCHITECT/TOKYO/2009』という大きな表題のついた六つのギャラリーによる同時多発的展示の中の三つとして位置づけられている。
大きな括りとしては共通のテーマを見出しながら、個々としては独自のコンセプトに基づいて展示を行うという現象は、まるでWeb空間のように機能しているかのようだ。「建築」というキーワードがあって、その中に展示会を総括、説明しているサイト(これがGYREでの展示内容:ARCHITECT JAPAN 2009に相当するように思う)が存在し、そこから更に、それぞれのリンク先に飛ぶことができるといったような空間体験を実世界において行うと、今回のような展示祭になるのではないだろうか。
そして今回訪れた三つのギャラリーの入る同建物では、絵画や芸術作品を展示している他のギャラリーも存在し、またその三つのギャラリーでさえも他の芸術作品を展示している。それはネットサーフィンをしているかのように、最初の目的は「建築」というキーワードに関するものを観ていたハズなのに、あるリンク先をクリックしていくと、いつの間にか「建築」とは直接的に関係のないサイトを観ているという感覚に近いと言える。そしてまた「建築」戻っていくような……。ある目的の中に、目的とは直接関係の希薄な対象物を混入させ目的を変化させていくという手法は、商業的手法のように思えるが、ギャラリーによる鑑賞する者にとって無償な展示において有効であると思う。そういった関係性は今までにも存在していただろうが、今回は更にそのメタ次元に位置するGYREでの展示や、その他のギャラリーが「建築」という極めて近いキーワードで同時多発的に展示することによって、よりそのWeb空間的作用が強調されているのではないかと思う。

『建築以前、建築以後』は多くの作品がアンビルドであり、建築が形になるまでの設計プロセス(建築以前)とその建築の最終的な形態とその先(建築以後)を見せる展示内容である。菊竹清則の<海上都市>はメタボリズム的発想で建築以後も、建築以前のプロセスが延々と続いていくような案であるし、伊東豊雄オスロ市<ダイクマン中央図書館>も、フラクタルな図式が完成形として敷地にプロットされたのちも、まだその過程であるかのように感じられる。一方SANAAの<スイス連邦工科大学ローザンヌ校ロレックス・ラーニング・センター>では、そのプロセスを切断して、幾重のスタディ上の一つの結果として提示しているという先に述べた二つの案とは違った印象を受ける。これは西沢立衛の<ガーデンアンドハウス>においても同様である。
また逆に平田晃久の『Flame flame』のアルミピースの集合体は、菊竹氏の<海上都市>のそれと同じようにプロセスと完成形の間であると同時に、それが自然物の持つ絶え間ない成長と変化の過程であるという事が、平田晃久の他の案(植物のひだを用いる等)をみても一貫したコンセプトとして読み取れる。
そしてそれらを意識的に掲示して見せたのが『生成の世代』での藤村龍至である。超線形プロセスによって思考され、過去ログをみせることによって何処で思考プロセスが終了したのか、しかし終了してもなおこの建築が成長していくような両義的感覚を表現しているように思う。
BIMによる設計などその設計プロセスや構造がデジタル化によって不明瞭に(最終的な形態の意味が理解しがたいという意味で、手描きによる抽象性とは違う次元で)なっていく中で、「プロセス」そのものにスポットライトを当て建築の意義を再考していく時代となることを明示する、そんな事を感じさせる展示内容であった。